台風の進路は、荒天準備が終わったあとは、ギリギリまで気にしないことにしています。
日差しの角度が変わって来ましたね
今日は暑かった
孫が6人できて、また子育てのやり直しのような状況になっている。子どもが、しぶしぶ親の言うことを聞かねばならなくなった時に、「クソババア」とか、「バカ」とか・・親に向かって捨て台詞を吐くことがある。いつか見た子育てについての番組で「子どもの捨て台詞は許して上げなさい」と言っていた。親の言うことが正しいとわかっていても、心の中にある消化できない感情を吐き捨てるのだそうです。それを自分に言われたと思って激高してはならないと・・専門家が言っていました。親の立場の時には知りませんでした。なるほど、整理できない感情というものは、表に出さねば気が済まないのかもしれません。何十年にも及ぶ喉のつかえがあったのでしょう。 弊社の歴史は、創設者である私の両親が60年以上前にクレモアというヨットで二人でこの油壷湾に入港して来た時から始まります。電気も無い真っ暗な油壷湾で二人の生活ははじまりました。そして今、油壷生まれ油壷育ちの私たちの子どもたちは一度外の世界に出たものの、全員また油壷へ戻って来ました。ファミリーは総勢14名となりました。 父は本当に特殊な人でしたから、敵も多かった。絶縁した個人も団体もあります。私はなぜ、絶縁に至ったのか?何度か訪ねたことがありましたが、どれもが発端は些細なこと、でも納得の行くことでした。ただ、ヨットを誰もができた時代ではありませんでしたから、そんな方々のプライドは傷つけたかもしれません。 しかし、誰が何を言おうとも、福留清彦と圭子、二人の油壷へ刻んだ歴史は消しようがない。その証明は、私たちそして弊社だと思っています。 そして、悪く言う人以上に多くの方々から、愛情のこもった言葉と対応をいただきながら、私たちは生きて来ました。私が育つ過程には、この著者の方がお支払い下さったお金も使わせていただいたことと思います。 ここまで私たちと会社を育てて下さったお客様や関わった方々皆様に、本当に感謝しています。 母は一玉のうどんを買うか、バスに乗るか?迷った時代があったと言います。最初に住んだ場所は牛小屋の横の納屋でした。私たちも大人になるまで社屋の中の二間での生活でした。この商売をやり遂げるにはここの住まねばならない、自宅は二の次といつも言っていました。初めて建設をはじめた自宅は、母の死に、間に合いませんでした。母はこの社屋から葬送しました。 ここに来る前、天然の良港である油壷湾、父はその絵を描いて、母に説明したそうです。二人の油壷への思いはそこから始まりました。 私も父と大喧嘩をして一時絶縁しました。でも、私はここに生まれたことを本当に感謝しています。ここで頑張ることが両親への恩返しだと思っていました。まだ、できているかわかりませんが、これからも頑張っていきます。 この「舵」の文章を見たときには、腹を立てることほどのものでもない、無視しようと思っていましたが、腹を立てて下さる方がいることを知り、書かせていただきました。両親の尊厳が傷つけられることを悲しんで下さる方がいることに感謝いたします。 それにしも「舵社」はどうしてしまったのでしょうか?ジャーナリズムとは?と考えてしいます。 2年生が夏休みの課題図書で読んだ「マララの魔法のえんぴつ」、言葉やペンの力について語っています。意味があってこその言葉、伝えるものがあってこそのペンです。「舵社」の方にも読んでいただきたいです。 それともう一つ、言いたいことがあるなら相手が生きてるうちに言えばよいのに・・・卑怯だな・・と思いました。 私に何かあれば生きてるうちに言って下さい。笑
記事を読みたいからと購入される方が増えてしまっては本末転倒です。ご要望有れば記事をお見せいたしますのでご連絡下さい。046-882-6543
油壺が「ヨットの聖地」として神格化すればするほど、その歴史を歪曲し我がもの顔で武勇伝を語るヨット乗りの方が増えてくるのかもしれません。ただ、その方々がどんなに頑張ったとしても歴史という事実は変えられません・・・油壺を愛し、ABSさんを表面的にしか知らない方々の間に、今号をきっかけに「誤解と偏見」が生まれないことを祈るばかりです。
ご心配をおかけしすいません。本気で心配して下さる方がいらっしゃることが本当に心強いです。今後、このような不愉快なことが起きないようにもう少し対策を考えてみたいと思っています。本当にありがとうございます。
また台風ですね